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動画 マインドコントロールへの落とし穴シリーズ [映画・動画]

カテゴリとしてマインドコントロールを追加しました。

以前にも紹介しましたが、youtubeにアップされているマインドコントロール関連の動画を紹介します。マインドコントロールとは何かを知るのにちょうどよいです。

マインドコントロールへの落とし穴!① 強制せず、さも自分の意思で
「・・・人間というのは極端な混乱に陥るとパニックを避けるために、自動的に思考を停止してしまう・・・」

マインドコントロールへの落とし穴!② 「慈善行為のアピール」
「強制力を使わずにどれだけ人の判断を左右できるかを実験してみました・・・(人物の印象を操作する実験)」


マインドコントロールへの落とし穴!③ ~強制のない集団圧力~
「(集団圧力がどう作用するかの実験として)7人のうち、6人はサクラ。予め間違った答えをしてもらうように頼んでおく。そのことを1人の実験台の方は知りません・・・」


マインドコントロールへの落とし穴!④ カルト教団
「(マインドコントロールの技術と言っても)なんだ、当たり前じゃんというものばかり・・・」


マインドコントロールへの落とし穴!⑤ ~ 脱会者の体験談 ~
(元エホバの証人による証言)「・・・聖書を学んでいるつもりが、組織の教理を学んでいたんだなって・・・・」


マインドコントロール(Mind Control)への落とし穴!⑥ ~カルト宗教脱会者の告白~手相など
「・・・洗脳は鉄の枠、マインドコントロールはオブラート・・・マインドコントロールは、強制せず、さも自分の意志で選択したかのように、ある結論に導くわけです・・・」


マインドコントロール(Mind Control)への落とし穴!⑦ ~ 対策 ~
「・・・マインドコントロールにかかり易い人は、という問いに答えはありません。あえて答えを出すならば、それは『自分だけは大丈夫』と思っている人です。最も無防備、無警戒になってしまうからです。では実際にどうすれば、対抗できるのでしょうか?・・・」
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「アウェイよりホーム」支配欲を満たそうとする思い [ハラスメント]

「きっと密会・不倫現場はアウェイよりホームがいいのだろう」(命と性の日記、「権力者たちの密会現場が意味するもの」より)

おそらく読者の皆さまは既にお読みになっているとは思いますが、一昨日の「命と性の日記」の記事は多くのクリスチャンブロガーによって引用されていることでしょう。それほど秀逸な記事です。
某国家公安委員長と某小学校校長という熟年権力者男性二名による女性スキャンダル。その場所はそれぞれ議員宿舎と校長室というホームを利用している点で共通していることを指摘。さらにイスラエル王ダビデやクリントン大統領の事件、そして聖職者らによる性的不祥事もすべて「アウェイよりホーム」である点を指摘しております。
指摘されるまで全く気がつきませんでしたが、確かにすべてホームで行われております。

さらにそこから支配欲を満たそうとするという点も指摘しております。ここ重要です。支配欲。これがカルト化の要因でもあり、またハラスメントの要因でもあります。


キリストの福音により支配欲はきよめられていくはず。しかし、それがなぜか権力ある地位に着くと、きよめられるどこから一層支配欲が増してしまう。支配欲という罪を足場として、そこに悪魔的な力が働くのでしょう。

イエスさまは40日間の荒野においてサタンから権力欲(支配欲)の誘惑を受けましたが、打ち勝たれました。そしてそれは荒野の出来事だけではなくご生涯すべてに見られるものであり、わけても十字架がそうであります。

そういう意味では権力欲(支配欲)を満たそうとする生き方はイエスさまの十字架の生き方とは正反対と言わざるを得ませんね。



ところでなぜ、アウェイよりホームを選ぶのか。ご指摘の支配欲の満たしのほかがあるとするなら、たぶん安心感もあるのではと思いました。権力者は普通の人以上に怖がりであり、案外臆病なのでは。それにそういうスキャンダラスのことをしながら、そのために今の地位と名誉を失いたくないために慎重になっている。だら、何が起こるかわからないアウェイよりもかって知るホームの方が安心だと考えているのかもしれません。何も失う恐れのない無鉄砲な人間ならアウェイだろうがぶどう畑だろうがかまわずかような行為に励むのでしょうが・・・
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「教会のカルト化」とハラスメントは関連すれども区別すべき [カルト化・マインドコントロール]

教会のカルト化」とハラスメント(セクハラ・パワハラ)は関連すれども区別すべきことがらである。

「教会のカルト化」による被害の1つとしてハラスメントが上げられる。しかしハラスメントだけがカルト化による被害のすべてではない。
一方、ハラスメントがあってもカルト化とは無関係の場合もある。

カルト化とハラスメントを区別することが両者の理解を深めることに役立ち、よりよい対策につながるであろう。
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マインドコントロール下に置かれている者の感情を想像すること、など  [カルト化・マインドコントロール]

マインドコントロール」とは「明らかに違反(教義違反、不道徳行為、不法行為、反社会的行為、あるいは信念や良心に反することなど)であると知りつつ、組織の指導者の言説を、あたかも自分の意志であるかのように判断し行動すること」である。

幾つかの組織で発生した事件やハラスメントの、そのすべてがマインドコントロール下にあったと言うつもりは毛頭ないけれども、ただ、その中の幾つかはマインドコントロール下にあったと推測される。被害者たちも自分は指導者のマインドコントロール下にあったと証言している。性被害者についても、内心ではこれはいけないことだと知りつつも、一方では指導者の命令に逆らうことの方を恐れたために、指導者の性犯罪に対して抗拒不能であった。これが準○○罪の抗拒不能の意味するところであろう。

マインドコントロールについて理解に乏しい人々は、マインドコントロール下にある者の感情(特に恐怖心)を想像できないために。「いけないと分かっているなら、なぜ最後まで抵抗しないのか」とか「被害者にも非があるのではないか」と思うだろう。確かに、マインドコントロールを経験したことのない人にとって、マインドコントロール下にある者の感情は分からないだろう。しかし経験がなくても思索することはできる。思索によって人間は、かなり想像できるものである。要は、理解しようとするかしないかの問題である。

密室で何が起こっているか?外にいる人間には全く分からない。そして一般的には、被害を訴える者の声を聞いても、そんなことはありえないと決め付けやすい。特に「バランスの取れた(と自負している)」人間はそういう判断をしがちである。もちろん、被害の訴えの全てが必ずしも真実であるとは限らない。そこには虚偽や誤解、針小棒大なこともあるだろう。しかし、もし被害者の感情があるならば、やはり密室で何かがあったのである。密室で何かがあったということは想像できるはずである。被害者から相談を受けた人は、それぐらいのことはしていただきたい、と私は願う。しかし、それはたぶん絶望的な願いであるけれども。

これは私の印象でしかないのだが、カルトやハラスメント被害者の相談に乗っている人は、ややアンバランスな人である。相談を受けると「やはり」と思うのは、このアンバランスな人間である。逆に、「バランスの取れた(と自負している)」人は、そのような相談に乗れる人はほとんどいない。相談されても「まさか」と思ってしまい、心にブレーキがかかってしまうのだろう。それは致し方ないのかもしれない。しかし、そのために問題がある。アンバランスな人は相談相手としてはふさわしいが、解決方法がやや極端に振れる印象がある。そのために解決が解決になっていないかもしれない。やはり相談から解決に向かっては、バランスの取れた人間の方が好ましいと私は思っている。

相談相手には、密室で何が起こっているかを想像できる人、あるいは被害者の感情に寄り添える人。
解決者には、冷静にバランスよく良識的に対処できる人。
この両者の協力が必要である、と私は思う。
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教会のカルト化メモ3.11 [カルト化・マインドコントロール]

色々と役目が重なりしばらくブログを更新できないでおりました。今後もしばらく更新できないかもしれません。読者の皆様にはお待たせすることになりますが、よろしくお願いいたします。とりあえずメモを記しておきます。メモの数字の順番に意味はありません。

1. 「教会のカルト化」およびまたは「牧師の不祥事」について、他人事とせず自分達自身の問題として受け止める声が増えているようである。教会のメタノイアとして良い方向に進んでいると思う。

2. 「教会のカルト化」は、より正確に言うならば「一部の教会に、破壊的カルトと類似の被害が見られる、あるいはその危険性」のことである。決して「キリスト教会全体が破壊的カルト化している」という意味ではない。このような誤解を生じさせないために「教会のカルト化」という表現を改める必要があると思う。

3. カルト化は福音に反する。

4. カルト化している教会はごく一部であって、キリスト教会全体がカルト化しているわけではない。ただし、カルト化を生み出す要因の幾つかが、カルト化していない教会においてもあるのではないかという疑いも持っている。むろんそのような要因があるからといって即カルト化状況を生み出すとわけではないだろうけれども、そのような要因はキリストの福音に照らし合わせるならば、やはりきよめられなければならないと思う。

5. 性犯罪など牧師の不祥事は、教会のカルト化とは関連するが区別すべきことがらである。つまり、カルト化しなくても性犯罪は起こりうる。また性犯罪を伴わないカルト化もありうる。

6. カルト化とパワハラも、関連するが区別すべきことがらであろう。

7. 牧師の不祥事に対する対策は牧師の心得が大であるが、教会のカルト化は牧師の心得では対処できない。

8. 教会のカルト化は集団心理である。

9. 「牧師に従え」「牧師に逆らうな」「目に見える牧師に従えない人が、目に見えない神に従うことはできない」「牧師の問題は神が取り扱うから、信徒が牧師を咎める必要がない」「○○先生の弟子」「教会の一致を乱す」「皆で決めたことに逆らうのか」という言説について。

10. 競争心、焦り、プレッシャー(特に教勢や会堂建築に対する)、自意識過剰、自己正当化、無知・無力に対する恐れ、「熱心でない」ことに対する恐れ、マンネリズムに対する恐れ、支配欲とその反動としての怒り、自己顕示欲、虚栄心、評判、劣等感と優越感、バッシングとバッシング回避、コミュニケーションギャップ、事なかれ主義・・・
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権威を持つ者は危険な立場に立つ [カルト化・マインドコントロール]

小さな命を守る会代表水谷潔先生のブログ「命と性の日記~日々是命、日々是性」で当ブログを紹介していただいたためでしょうか、ここ数日アクセスが非常に増えております。アクセス数の伸びはうれしくもあり恐ろしくもあります。気を引き締めて取り掛からねば。水谷先生には、15年前の特伝での出会いを覚えていてくださり感謝いたします。今後ともよろしくお願いいたします。個人的な話はさておき。

教会のカルト化記事の続きです。カルト化の背景に権威主義があることは、既に各所で指摘されております。権威主義だけが原因ではありませんが、それが要因の一つであることはまず間違いないでしょう。権威主義は教会だけの問題ではありませんが、しかし教会は権威ある務めが存在するところですから、権威主義が生じる危険性はあるわけです。

※注 権威と権威主義は別物です。 権威・・・自発的に同意・服従を促すような能力や関係のこと。(wikiより) 権威主義・・・意思決定や判断において自分の頭で考えたり情報を集めずに権威に盲従する態度。あるいは意思決定の場において、論理的説明を省略し、権威に対する盲従を他者に要求する態度を指す。(wikiより。下線は引用者による)

すべての教会が権威主義的だというのではありません。多くの牧師たちは権威主義ではないと思います。しかし権威主義に陥る可能性はあります。

牧師の権威の危険性について、ユージーン・ピーターソンが著書『牧会者の神学』の中で述べている箇所が有益だと思いましたので、読者の方々にもご紹介いたします。「第3章 霊的導き」の中から牧師の権威と服従について述べている箇所があります。少々長めの引用をすることをお許しください。
より健全な時代においては当然とみなされてきたものが広範に失われたことによって、牧師は(ほとんど意識することなく)途方もない危険の中に置き去りにされてしまった。そしてその残骸がたくさん積み重なることになったのである。すなわち、祈らない牧師、信仰的に成長しない牧師、文化とキリスト教の相違を語らない牧師、一時的な流行を追いかける牧師、シニカルでなにもしない牧師、二十年間も祈祷を続けてきたにもかかわらず、祈りについて知るところは按手を受けた日と同じ程度でしかないような牧師、長年にわたって善意の教会員から投げかけられた「牧師さん、すばらしい説教です・・・牧師さん、すばらしい祈りです・・・牧師さん、あなたがいなければ私は・・・」というたぐいの、でまかせのお世辞の文句によって傲慢で桁外れのエゴに満たされた牧師・・・。 権威を持つ者は危険な立場に立つのである。洗礼、信仰告白、結婚、和解、死といった人生の記憶すべき瞬間に牧師は尊厳をまとって登場し、神の権威を代理する。説教壇から、聖餐台から、そして洗礼盤から、牧師は神の権威ある言葉を告知する。あらゆる種類、あらゆる状態の人々が牧師のもとにやって来て、その口から発せられる決定的な神の言葉を聞く。人々は牧師の洞察に信頼して、自分の罪責に満ちた人生における罪や痛みを告白する。人々は牧師を権威あるものとして見上げるのである。 しかし、私たちの信仰の実践には、権威をふりまわすこととは正反対のことがら、すなわち服従の実践が含まれている。信仰とは主であるキリストに服従する行為であり、その命令に進んで応答することである。牧会上の要請として、どれほど牧師が主の名によって権威をもって語り、また行動しようとも、キリスト者としての私たちのアイデンティティーは「仕える者」としてのそれである。(E.H.ピーターソン『牧会者の神学』307ページより。下線は引用者による)

仕える者としての生。これがキリスト者のアイデンティティーでしょうし、それが権威主義に対する回答と言えるでしょう。

とはいえ、「仕える」という言葉が使われているからといってそれだけで健全な教会であるとは言えません。むしろカルト化教会においてはかなりの頻度で「仕える」という言葉が使われているようであります。ですから何に仕えているのか。その辺をしっかりと見極めることも必要でしょう。

なお、人間というものは、周囲からの賞賛を得ようとして「仕える」姿勢を取ることさえありうる、ということも付け加えさせていただきます。「自分は『仕えている』のだ」と口や態度で自己宣伝するような人間が陰では権威を振りかざしているということさえありうるのです。自分でも言い、周囲からも「仕える牧師」と認められている牧師が、問題を起こしているわけですから。

仮想の対話
A「・・・でも、あの牧師は本当に仕える先生ですよ。」
B「どうしてあなたはそう思うのですか?」
A「だって、あの牧師は『わたしほど仕える牧師はない』っていつも言ってましたから。」
B「でもそれは、本人が自分でそう言っているだけなのでしょう?」
A「いいえ。それだけではありません。あの牧師は私たちの生活の細かい点まで徹底的に指導してくださるのです。ここまでしてくださる牧師を私は知りません。あの牧師こそ本当に仕える牧師だと思います。」
B「それって本当に仕えていることになるのですか?誰に仕えているのですか?」
A「えっ・・・」
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卞在昌容疑者起訴 [カルト化・マインドコントロール]

2日遅れの記事上げ

宗教法人代表を起訴=女性信者に乱暴-水戸地検(時事通信より)
 宗教法人代表が信者の女性に乱暴した事件で、水戸地検は17日、準強姦(ごうかん)の罪で、「小牧者訓練会」代表で「国際福音キリスト教会」の主任牧師、卞在昌容疑者(61)を起訴した。  起訴状によると、卞容疑者は、2007年2月17日、茨城つくば市の教会内で、信者の女性に「神に背いて悲惨な人生を歩まないためには指示に従うしかない」と信じ込ませ、抵抗できない状態に陥らせて乱暴したとされる。(2010/02/17-19:24)


宗教法人性的暴行:牧師を準強姦罪で起訴 被害者団体「裁判で真相を」 /茨城(毎日新聞より)
つくば市に拠点を置くキリスト教系宗教法人「小牧者(しょうぼくしゃ)訓練会」であった性的暴行事件で、水戸地検土浦支部は17日、同会牧師で韓国籍の卞在昌(ビョンジェチャン)容疑者(61)=土浦市=を準強姦(ごうかん)罪で水戸地裁土浦支部に起訴した。  起訴状によると、卞被告は07年2月17日ごろ、つくば市内の同会教会で県内在住の20代女性信者に対し、神に背いて悲惨な人生を歩まないためには卞被告の指示に従うしかないと思いこませ、暴行したとしている。  地検土浦支部によると、卞被告は事件前からこの女性信者に「(自分は)神から権威を与えられた特別な牧師で、神と同じように従わなければ苦難を受けて荒野の人生を歩む」と何度も説教していたという。  起訴を受け、元信者らによる被害者団体「モルデカイの会」は「(卞被告は)絶対的権威を利用し(被害を)訴えることは罪だと被害者に信じ込ませてきた。裁判で、真相が明らかにされることを望む」とコメントを出した。被害者代理人の斎藤大弁護士によると、被害者を抵抗できない心理状態に陥らせたうえでの事件は立証が難しく、裁判例が少ないため、起訴は被害防止に意義があるという。【原田啓之、高木昭午】

逮捕時と同じく準強姦罪での起訴となりました。地検は卞容疑者の嫌疑は十分と判断したのでしょう。裁判の行方に注目したいです。

本件は準強姦という被害者女性の抗拒不能に乗じて強姦をしたという内容です。報道や被害者団体の発表にあるように、卞容疑者はかねてより自身の絶対的権威を主張し、自己への不従順に対する脅しもしていたことで、それが信者らに対するマインドコントロールになっていたと推測されます。そしてそのマインドコントロールによって被害者女性が卞容疑者の性行為に対して抗拒不能状態になっていたと思われます。

ところで従来裁判所は宗教被害に対するマインドコントロールの影響についてあまり踏み込んだ判断をしてこなかったようです。しかし今回の件についてはマインドコントロール(あるいはカルト化)についてある程度踏み込んだ判断がなされるのではないかと期待いたします。強姦罪ではなく準強姦罪ですから、被害者の抗拒不能状況を生み出した背景があるわけです。抗拒不能を作った原因が牧師の絶対的権威の主張にあるとすれば、まさにその問題の認識が今後一層広まっていくのではないか。そのことによってマインドコントロールの危険性を認識し、予防と対策へと向かわせる契機となることを願います。

私はこの事件の背後には、今日のキリスト教会に蔓延する歪んだ規範意識と権威主義があると考えております。本件を特殊な事例として退けず、今日のキリスト教会が抱えている問題の表面化であると捉えることが大事だと思います。そしてこの問題がキリストの光と聖霊の力によって福音的に解決され本来あるべき規範性と権威が教会の中に回復されていって欲しい。そのように願っております。
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小牧者訓練会のパワハラ3 [ハラスメント]

(3)継続性(頻繁さ)
陰湿な嫌がらせを再三受けて(「事案の概要」より)
小牧者訓練会のパワハラが頻繁に行われていることが被害者側から訴えられています。同様の継続性(頻繁さ)は、たとえばハレルヤコミュニティーチャーチ浜松教会の榊山清志牧師によるセクハラ・暴力事件に対する静岡地裁浜松支部の判決文(2008年5月19日)においても以下のように認められています。
しつけと称して,こたつの脚,フライパンドラムのステイックなどで腎部や足の裏を叩いたり,素手で顔を叩いたりといった暴力を日常的に加えていた。(判決文中の「当裁判所の判断」より。下線は引用者による)
(なお榊山氏に関する判決では暴力・セクハラの事実は認められたものの、時効を理由に損害賠償請求は却下されました。詳しくは判決文をご覧ください。)

パワハラの判断基準に、その行為の継続性(頻繁さ)があげられます。以下、涌井美和子『職場のいじめとパワハラ防止のヒント』より該当部分を引用します。
パワー・ハラスメント判断基準;その2 時間的経過について  行為の発生過程と頻度;身体的暴力など,たった1回でもパワー・ハラスメントに該当する可能性があるものもあるが,多くは,何度か繰り返されるうちにパワー・ハラスメントになる可能性が高くなる。とくに,単発的に繰り返されるのではなく,だんだん強迫的あるいは執拗に繰り返されるようになっていたり,行為者が支配的になっていったり,苛立ちがみられるようになるなど,時間の経過とともに,質や内容が変わっているのであれば,パワー・ハラスメントに該当する可能性が高くなる。(「第1章 パワー・ハラスメントとはどのような行為か」26ページより)
(なお本書では、パワハラの判断基準が4つ示されております。本書はパワハラを理解する上で有用です。いずれ機会があれば本ブログでも取り上げたいと思います。)

涌井氏が示した判断基準の説明から次の2つのことが言えます。いずれもパワハラというものの性質からきております。

1つはパワハラというものが必ずしも直接的な身体的暴力によらないということです(そもそもパワハラという概念は、暴力では捉えきれない被害を概念化する必要から生まれました)。直接の身体的暴力があれば傷害事件となりますが、そうでない場合は程度問題とされ、第三者から見てもその判断が非常に難しくなります。したがって明らかに悪質なものを除けば、1度の言動だけをもってしてパワハラと判断することは非常に難しくなります。しかし繰り返しなされるなら、それはパワハラと認定される可能性が高いということです。

2つめは、そもそもなぜパワハラは繰り返し行われるかという点です。加害者の心理は様々であり、加害者の自覚の程度もまちまちですが、加害者は被害者を自分に服従させたいという動機が根底にあることはだいたい共通しております。加害者はより支配を強める方向に行為をエスカレートしていきます。やがて被害者を自分の意のままに支配することに限界を感じたり被害者が防衛的になると、加害者は被害者を破壊と抹殺(いわゆる排斥)するようになります(涌井、18ページ)。このように、パワハラとはよりエスカレートし、内容も変化することが多いものです。ただし必ずしもすべてが時系列に沿って深刻化するとは限りませんので個々の事例について判断する場合は注意が必要です。要は、パワハラとは、その性質上、一度限りで終わることではなく、頻繁に繰り返されるものである、ということです。
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小牧者訓練会のパワハラ2 [ハラスメント]

(2)適正な範囲の超過

上位者の下位者に対する言動が、果たして適正な範囲のものであるかどうか。これがパワハラ判断基準の一つであるといえます。ただし、その言動が適正な範囲を越えていると感じるかどうか「する側」と「される側」では大きく異なります。パワハラをする側は、自分の言動は適正の範囲内にあると思っているでしょう。たとえ度を越したとしても、「少々やりすぎたかもしれないが、これぐらいは普通だ」と自分を納得させるでしょう。一方「される側」にとっては、適正な範囲にあるとは思えないでしょう。ただし、マインドコントロールの下にあるならば「される側」もこれは正しいことだと納得しやすくなります。これが一般社会におけるパワハラよりも深刻化させる原因になっています。教会においては、いじめや人格攻撃ということはそもそもありえないものですが、マインドコントロールの下にある教会では、いじめや人格攻撃が「訓練」の名の下に正当化されてしまいます。

小牧者訓練会でのパワハラ被害の事例を見てみましょう。内容は「被告Xの不法行為(その1)」(モルデカイの会による)に基づいております。それによれば、スクワット200回密室での延々とした脅し寮生や外国人牧師の面前での罵倒深夜の呼び出し怒鳴りつけ、が具体的事例としてあげられています。詳細は当該記事をお読みください。被害者からすれば、まったく理不尽な行為であり、第三者的に見てもこれが適正の範囲をはるかに超えていることは明白です。

被害者(伝道師)は当初は加害者(上位教職者)に抵抗は示すものの、徐々に逆らうことができず、ただただ恐怖心を抱くようになり、無抵抗となっていきました。典型的なカルト化教会におけるパワハラ被害と言えるでしょう。
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小牧者訓練会のパワハラ [ハラスメント]

具体的にカルト化教会におけるパワハラ被害の実態について見ていきたいと思います。ただ、一般の会社におけるパワー・ハラスメント(パワハラ)被害の実態については本やネットで知ることができますが、教会におけるパワハラ被害の実態についてはほとんど公にされておりませんので実態がつかみにくいのが実情です。このような状況においては、パワハラ訴訟の存在は実態把握の参考になります。去る2009年12月15日に、宗教法人小牧者訓練会におけるパワハラに対する民事訴訟がありました。またその概要が原告支援側(モルデカイの会)によりネット公開されています。公開されたこの概要は教会におけるパワハラの実態をつかむために貴重な資料となります。教会におけるパワハラ被害の一つのケースと言えます。

パワハラ訴訟(不法行為等を理由とする損害賠償請求)の事案概要(モルデカイの会)

以下、この概要を中心に取り上げてみます。なお、この内容は原告側(被害者側)に立った内容です。当然、被告側(加害者側)からの反論もあるでしょう。あるいは被害者証言のみを取り上げることへの批判もあるかもしれません。ただ、本記事の関心は裁判にではなく、あくまでもパワハラ被害の実態を知ることにありますから、その点に関して言えば、被害者側の訴えを取り上げるだけで十分であると考えられます。
プロテスタント系キリスト教団小牧者訓練会(宗教法人)の創立者で教団と 下部組織の国際福音キリスト教会の主任牧師だった被告卞は、霊的指導者の自分は 絶対的権威と説いて指導原理とし、自分に服従している上位教職者の指揮命令にも 下位教職者は絶対に服従しなければならないとの教義を教団に浸透させた。 そうした環境の教団に雇用され伝道師となった原告は、教義に忠実な上位教職者の 被告Xから、陰湿な嫌がらせを再三受けて自律神経失調症を発症、その後、被告卞は、 原告の病状を知りながら、咎め、「鬱には肉体労働がさいこう(ママ)」などと 原告に肉体労働や事務労働を無給で強制し、日常的にメールや口頭で暴言を 浴びせるなどの抑圧を繰り返して、2ヶ月も経たないうちに、原告の症状は 一気に統合失調症まで悪化した。原告は労働能力の多くを奪われたが、 主任牧師や上位教職者を責めてはならないとの教義による心理的抑圧で被害を 訴えることは許されないと思い込まされていた。(「事案の概要」より)

この概要をパワハラの要件に照らして見てみましょう。
(1)力関係の利用
(2)適正な範囲の超過
(3)継続性
(4)人権侵害、精神的・肉体的苦痛、職場環境の悪化

まず(1)の力関係の利用に関して言えば、上位教職者(被告Ⅹ)と下位教職者(伝道師、原告)という明らかな力関係があります。さらに小牧者訓練会ではこの力関係をより強化する方向に教団内の空気をもっていっております。具体的には下位教職者は上位教職者に絶対に服従しなければならないとの教義を教団に浸透させていたことにあります。そしてより重要なことは、下位教職者が上位教職者に服従しなかった場合、下位教職者自身が罪意識を抱いてしまうことにあります。ここが会社におけるパワハラと大きく異なる点です。会社の場合も下位者が上位者に従わない場合、減給や解雇といった不利益を被る恐れがあるわけですが、教会におけるパワハラの場合は、深刻な罪意識を抱くことによって、より精神的苦痛を被ることになります。教会におけるパワハラ被害の方が会社のパワハラよりもより深刻な精神的ダメージを受けるといってよいでしょう。
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