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「アウェイよりホーム」支配欲を満たそうとする思い [ハラスメント]

「きっと密会・不倫現場はアウェイよりホームがいいのだろう」(命と性の日記、「権力者たちの密会現場が意味するもの」より)

おそらく読者の皆さまは既にお読みになっているとは思いますが、一昨日の「命と性の日記」の記事は多くのクリスチャンブロガーによって引用されていることでしょう。それほど秀逸な記事です。
某国家公安委員長と某小学校校長という熟年権力者男性二名による女性スキャンダル。その場所はそれぞれ議員宿舎と校長室というホームを利用している点で共通していることを指摘。さらにイスラエル王ダビデやクリントン大統領の事件、そして聖職者らによる性的不祥事もすべて「アウェイよりホーム」である点を指摘しております。
指摘されるまで全く気がつきませんでしたが、確かにすべてホームで行われております。

さらにそこから支配欲を満たそうとするという点も指摘しております。ここ重要です。支配欲。これがカルト化の要因でもあり、またハラスメントの要因でもあります。


キリストの福音により支配欲はきよめられていくはず。しかし、それがなぜか権力ある地位に着くと、きよめられるどこから一層支配欲が増してしまう。支配欲という罪を足場として、そこに悪魔的な力が働くのでしょう。

イエスさまは40日間の荒野においてサタンから権力欲(支配欲)の誘惑を受けましたが、打ち勝たれました。そしてそれは荒野の出来事だけではなくご生涯すべてに見られるものであり、わけても十字架がそうであります。

そういう意味では権力欲(支配欲)を満たそうとする生き方はイエスさまの十字架の生き方とは正反対と言わざるを得ませんね。



ところでなぜ、アウェイよりホームを選ぶのか。ご指摘の支配欲の満たしのほかがあるとするなら、たぶん安心感もあるのではと思いました。権力者は普通の人以上に怖がりであり、案外臆病なのでは。それにそういうスキャンダラスのことをしながら、そのために今の地位と名誉を失いたくないために慎重になっている。だら、何が起こるかわからないアウェイよりもかって知るホームの方が安心だと考えているのかもしれません。何も失う恐れのない無鉄砲な人間ならアウェイだろうがぶどう畑だろうがかまわずかような行為に励むのでしょうが・・・
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「教会のカルト化」とハラスメントは関連すれども区別すべき [カルト化・マインドコントロール]

教会のカルト化」とハラスメント(セクハラ・パワハラ)は関連すれども区別すべきことがらである。

「教会のカルト化」による被害の1つとしてハラスメントが上げられる。しかしハラスメントだけがカルト化による被害のすべてではない。
一方、ハラスメントがあってもカルト化とは無関係の場合もある。

カルト化とハラスメントを区別することが両者の理解を深めることに役立ち、よりよい対策につながるであろう。
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マインドコントロール下に置かれている者の感情を想像すること、など  [カルト化・マインドコントロール]

マインドコントロール」とは「明らかに違反(教義違反、不道徳行為、不法行為、反社会的行為、あるいは信念や良心に反することなど)であると知りつつ、組織の指導者の言説を、あたかも自分の意志であるかのように判断し行動すること」である。

幾つかの組織で発生した事件やハラスメントの、そのすべてがマインドコントロール下にあったと言うつもりは毛頭ないけれども、ただ、その中の幾つかはマインドコントロール下にあったと推測される。被害者たちも自分は指導者のマインドコントロール下にあったと証言している。性被害者についても、内心ではこれはいけないことだと知りつつも、一方では指導者の命令に逆らうことの方を恐れたために、指導者の性犯罪に対して抗拒不能であった。これが準○○罪の抗拒不能の意味するところであろう。

マインドコントロールについて理解に乏しい人々は、マインドコントロール下にある者の感情(特に恐怖心)を想像できないために。「いけないと分かっているなら、なぜ最後まで抵抗しないのか」とか「被害者にも非があるのではないか」と思うだろう。確かに、マインドコントロールを経験したことのない人にとって、マインドコントロール下にある者の感情は分からないだろう。しかし経験がなくても思索することはできる。思索によって人間は、かなり想像できるものである。要は、理解しようとするかしないかの問題である。

密室で何が起こっているか?外にいる人間には全く分からない。そして一般的には、被害を訴える者の声を聞いても、そんなことはありえないと決め付けやすい。特に「バランスの取れた(と自負している)」人間はそういう判断をしがちである。もちろん、被害の訴えの全てが必ずしも真実であるとは限らない。そこには虚偽や誤解、針小棒大なこともあるだろう。しかし、もし被害者の感情があるならば、やはり密室で何かがあったのである。密室で何かがあったということは想像できるはずである。被害者から相談を受けた人は、それぐらいのことはしていただきたい、と私は願う。しかし、それはたぶん絶望的な願いであるけれども。

これは私の印象でしかないのだが、カルトやハラスメント被害者の相談に乗っている人は、ややアンバランスな人である。相談を受けると「やはり」と思うのは、このアンバランスな人間である。逆に、「バランスの取れた(と自負している)」人は、そのような相談に乗れる人はほとんどいない。相談されても「まさか」と思ってしまい、心にブレーキがかかってしまうのだろう。それは致し方ないのかもしれない。しかし、そのために問題がある。アンバランスな人は相談相手としてはふさわしいが、解決方法がやや極端に振れる印象がある。そのために解決が解決になっていないかもしれない。やはり相談から解決に向かっては、バランスの取れた人間の方が好ましいと私は思っている。

相談相手には、密室で何が起こっているかを想像できる人、あるいは被害者の感情に寄り添える人。
解決者には、冷静にバランスよく良識的に対処できる人。
この両者の協力が必要である、と私は思う。
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教会のカルト化メモ3.11 [カルト化・マインドコントロール]

色々と役目が重なりしばらくブログを更新できないでおりました。今後もしばらく更新できないかもしれません。読者の皆様にはお待たせすることになりますが、よろしくお願いいたします。とりあえずメモを記しておきます。メモの数字の順番に意味はありません。

1. 「教会のカルト化」およびまたは「牧師の不祥事」について、他人事とせず自分達自身の問題として受け止める声が増えているようである。教会のメタノイアとして良い方向に進んでいると思う。

2. 「教会のカルト化」は、より正確に言うならば「一部の教会に、破壊的カルトと類似の被害が見られる、あるいはその危険性」のことである。決して「キリスト教会全体が破壊的カルト化している」という意味ではない。このような誤解を生じさせないために「教会のカルト化」という表現を改める必要があると思う。

3. カルト化は福音に反する。

4. カルト化している教会はごく一部であって、キリスト教会全体がカルト化しているわけではない。ただし、カルト化を生み出す要因の幾つかが、カルト化していない教会においてもあるのではないかという疑いも持っている。むろんそのような要因があるからといって即カルト化状況を生み出すとわけではないだろうけれども、そのような要因はキリストの福音に照らし合わせるならば、やはりきよめられなければならないと思う。

5. 性犯罪など牧師の不祥事は、教会のカルト化とは関連するが区別すべきことがらである。つまり、カルト化しなくても性犯罪は起こりうる。また性犯罪を伴わないカルト化もありうる。

6. カルト化とパワハラも、関連するが区別すべきことがらであろう。

7. 牧師の不祥事に対する対策は牧師の心得が大であるが、教会のカルト化は牧師の心得では対処できない。

8. 教会のカルト化は集団心理である。

9. 「牧師に従え」「牧師に逆らうな」「目に見える牧師に従えない人が、目に見えない神に従うことはできない」「牧師の問題は神が取り扱うから、信徒が牧師を咎める必要がない」「○○先生の弟子」「教会の一致を乱す」「皆で決めたことに逆らうのか」という言説について。

10. 競争心、焦り、プレッシャー(特に教勢や会堂建築に対する)、自意識過剰、自己正当化、無知・無力に対する恐れ、「熱心でない」ことに対する恐れ、マンネリズムに対する恐れ、支配欲とその反動としての怒り、自己顕示欲、虚栄心、評判、劣等感と優越感、バッシングとバッシング回避、コミュニケーションギャップ、事なかれ主義・・・
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権威を持つ者は危険な立場に立つ [カルト化・マインドコントロール]

小さな命を守る会代表水谷潔先生のブログ「命と性の日記~日々是命、日々是性」で当ブログを紹介していただいたためでしょうか、ここ数日アクセスが非常に増えております。アクセス数の伸びはうれしくもあり恐ろしくもあります。気を引き締めて取り掛からねば。水谷先生には、15年前の特伝での出会いを覚えていてくださり感謝いたします。今後ともよろしくお願いいたします。個人的な話はさておき。

教会のカルト化記事の続きです。カルト化の背景に権威主義があることは、既に各所で指摘されております。権威主義だけが原因ではありませんが、それが要因の一つであることはまず間違いないでしょう。権威主義は教会だけの問題ではありませんが、しかし教会は権威ある務めが存在するところですから、権威主義が生じる危険性はあるわけです。

※注 権威と権威主義は別物です。 権威・・・自発的に同意・服従を促すような能力や関係のこと。(wikiより) 権威主義・・・意思決定や判断において自分の頭で考えたり情報を集めずに権威に盲従する態度。あるいは意思決定の場において、論理的説明を省略し、権威に対する盲従を他者に要求する態度を指す。(wikiより。下線は引用者による)

すべての教会が権威主義的だというのではありません。多くの牧師たちは権威主義ではないと思います。しかし権威主義に陥る可能性はあります。

牧師の権威の危険性について、ユージーン・ピーターソンが著書『牧会者の神学』の中で述べている箇所が有益だと思いましたので、読者の方々にもご紹介いたします。「第3章 霊的導き」の中から牧師の権威と服従について述べている箇所があります。少々長めの引用をすることをお許しください。
より健全な時代においては当然とみなされてきたものが広範に失われたことによって、牧師は(ほとんど意識することなく)途方もない危険の中に置き去りにされてしまった。そしてその残骸がたくさん積み重なることになったのである。すなわち、祈らない牧師、信仰的に成長しない牧師、文化とキリスト教の相違を語らない牧師、一時的な流行を追いかける牧師、シニカルでなにもしない牧師、二十年間も祈祷を続けてきたにもかかわらず、祈りについて知るところは按手を受けた日と同じ程度でしかないような牧師、長年にわたって善意の教会員から投げかけられた「牧師さん、すばらしい説教です・・・牧師さん、すばらしい祈りです・・・牧師さん、あなたがいなければ私は・・・」というたぐいの、でまかせのお世辞の文句によって傲慢で桁外れのエゴに満たされた牧師・・・。 権威を持つ者は危険な立場に立つのである。洗礼、信仰告白、結婚、和解、死といった人生の記憶すべき瞬間に牧師は尊厳をまとって登場し、神の権威を代理する。説教壇から、聖餐台から、そして洗礼盤から、牧師は神の権威ある言葉を告知する。あらゆる種類、あらゆる状態の人々が牧師のもとにやって来て、その口から発せられる決定的な神の言葉を聞く。人々は牧師の洞察に信頼して、自分の罪責に満ちた人生における罪や痛みを告白する。人々は牧師を権威あるものとして見上げるのである。 しかし、私たちの信仰の実践には、権威をふりまわすこととは正反対のことがら、すなわち服従の実践が含まれている。信仰とは主であるキリストに服従する行為であり、その命令に進んで応答することである。牧会上の要請として、どれほど牧師が主の名によって権威をもって語り、また行動しようとも、キリスト者としての私たちのアイデンティティーは「仕える者」としてのそれである。(E.H.ピーターソン『牧会者の神学』307ページより。下線は引用者による)

仕える者としての生。これがキリスト者のアイデンティティーでしょうし、それが権威主義に対する回答と言えるでしょう。

とはいえ、「仕える」という言葉が使われているからといってそれだけで健全な教会であるとは言えません。むしろカルト化教会においてはかなりの頻度で「仕える」という言葉が使われているようであります。ですから何に仕えているのか。その辺をしっかりと見極めることも必要でしょう。

なお、人間というものは、周囲からの賞賛を得ようとして「仕える」姿勢を取ることさえありうる、ということも付け加えさせていただきます。「自分は『仕えている』のだ」と口や態度で自己宣伝するような人間が陰では権威を振りかざしているということさえありうるのです。自分でも言い、周囲からも「仕える牧師」と認められている牧師が、問題を起こしているわけですから。

仮想の対話
A「・・・でも、あの牧師は本当に仕える先生ですよ。」
B「どうしてあなたはそう思うのですか?」
A「だって、あの牧師は『わたしほど仕える牧師はない』っていつも言ってましたから。」
B「でもそれは、本人が自分でそう言っているだけなのでしょう?」
A「いいえ。それだけではありません。あの牧師は私たちの生活の細かい点まで徹底的に指導してくださるのです。ここまでしてくださる牧師を私は知りません。あの牧師こそ本当に仕える牧師だと思います。」
B「それって本当に仕えていることになるのですか?誰に仕えているのですか?」
A「えっ・・・」
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